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謹慎最終日

自分で自主的に休みを取るということと、仕事に来るなと言われて強制的に居宅するのは全く趣が違うことを改めて実感した。それでも納得していればまだいいんだろうが、前回はなしたように納得イカナイ点が多いとき、それは憤りにメタファーする。何人かのひとたちから激励のメールをもらった。こういうときにどんな人間がほんとの友達かわかる。(まあ逆にいうと予想通りだったけどね)。ある人は「せっかくだからみんなに働かせて、好きなことしろ」というが、どういうわけかそんな気持ちにならない。ある人は「ただで休みもらえてラッキーじゃん」とかいう(どうせこの休みは事務処理上、私の年休を使われてるに違いないが)。でもぜんぜん楽しくない。仕事しないで休んでいるほうが、体としては楽だろう、でも気持ちは全く違う。なんでだろう。それは前にも考えたように、仕事とはその人の「ひととなり」だからだろう。大阪でまたM先生とお話した。地上33階の西梅田駅のすぐ近くにあるブリーゼ・ブリーゼという高層ビルだ。お誘いを受けたのは4月の学会のすぐあとで、すごく楽しみにしていた。実際この会が無ければ私の大阪行きは心が揺らいでいただろう。高級フレンチ「Benoit」(ブノア)でごちそうになったのだが、料理は絶景を見ながらで最高だった。ここで今回ご紹介いただいた本が「奇跡の経営(リカルド・セムラー著)」だった。今現在読んでいるところだが、内容はこの著者の会社「セムコ」では社員を全くコントロールすることなく、また自分で納得のいく「好きな」仕事しかしないというシステムで驚異の成長と異様な離職率の低さを体現していると言う話だ。仕事は人間の尊厳に関わる。たとえそれが正論であっても、その人の仕事に関する命令を出すときには慎重さとデリカシーと多方面との協議、歩調のあわせが必要だと思う。しかし今回の出来事で「平凡な毎日」な貴重さを改めて知った。M先生は言う、すべてのイレギュラーな出来事は何かを気づかせるために起こっているのだと。そのとおりだ、これは私にとって実は福音だったのだろう(ここまでいうとどこかジャングルポケットのプロットのにおいがするかな?)。
そこでこの謹慎中、ある男のことを思い出した。
男は19歳、大学浪人2年目、1年目で文字通り某大に合格していたが、第1志望をあきらめきれないということと、母親が大腸がんの術後ということもあって、進学せず東京の予備校からもどり、病後の母親の面倒を見ながら自宅浪人することに決めた。そいつの父親は男が胃がんでK都大で手術を受けたがあっさり再発して、男が小5の夏になくなった。妹が居たが当時中3。男はよくその頃いっていた。
「朝、食事の支度をして、片付けて洗濯物を干すとちょうど9時、学校始まってる時間なんだよね、やっぱりいいよね、毎朝学校いけるってのは」と。「昼間いい天気の日に、机に向かってると、おれひとりこの世から取り残されている気がしてきてたまらないんだよね、まあ世捨て人ってとこかな?」などとよくうそぶいていた。親一人、子二人の母子家庭だ、かなり貧乏だったようだ。男の家はボロ家で同級生たちからも有名だった。だからだれも遊びにいったことはなかった。ごくたまに親しい友人がくると男の母親がミシンを踏んでいるおとが聞えたらしい。便所の床の木が腐って底に落ちたといってたこともあった。私はそいつの家にいったことはない。母親が内職みたいなことをして生計を立てていたようだった。夏に家族旅行などいったという話も聞いたことがない、よく男の家族3人で街中を自転車で走るのを見た。そうクルマがないのだ。しかしあるときこぎれいな小さな家を建てたといって、大喜びして転校していった。あいつが中学に入ったときだ。その後彼と会ったのは高校卒業後、浪人したとは聞いていた。しかし2浪するとは予想しなかった。で、尋ねていったわけだ。元気そうだった。そのときまでは。でもしばらくすると母親のがんの肝転移が見つかり、当時でめずらしかったTAEが行われた。しかし転移巣は全身に広がり、肺野全体を埋め尽くしていた。彼は医学部志望だというだけで主治医の総合O病院外科のS先生に呼び出される。まさかこのときそれから20年後、医師となった彼が彼の医局の人事委員長となってそのO病院に派遣中止を通告することになるとは予想もしなかっただろう。
彼は主治医と婦長から予後と今後の状態の予測を言われた。母親はたぶん肝性脳症だったのだろうか、夜中にせん妄を起こす。夜2時ごろ急に起き上がって、外に行きたいと言い出したらしい。彼はまともに歩けない母親をおぶって夜の街を数時間さまよったという。彼の妹は変わり果ててしまった母親の言動を見て、泣き止まない日々だったといっていた。この話は11月彼の母親の葬式のあとで聞いた話だ。「この世の地獄ってこんな感じかなって思った」とあいつはいっていた。なぜか母親がなくなったとき悲しい気持ちと、もう看病しなくていいという安堵の気持ちがあったそうだ、彼はその後者の気持ちを抱いたことに相当自己嫌悪に陥っていたようだった。。でもそれは医者やってるいま、私にはわかるし、いまなら彼も自分を許せるだろう。彼はやつれきっていた。妹は半分ぐれてた。当時の共通1次試験はもうすぐそこまで迫っていた。「どうするつもりだ、こんなんじゃ受けても無駄だろう」私は彼に言った。でも彼はいった「妹を食わせていかなきゃなんない以上、おれはもうここを離れられない。だからどっちにしても家から通える大学にいく」と。
そして彼は翌春、この私の大学に入学し私の後輩になった。彼の母親は彼が医学部にいったことを全く知らない。
彼とはその後良い友達だった。いまでもたまに会う。でも会う時はいつも私の調子が悪い。あまりいい顔して彼と話できない。今週はいろいろあって無性に彼と話したくなった。
彼と向き合って話すことは、私の存在自体を原点にもどすことだからである。
.28 2009 医療ねた comment0 trackback0
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プロフィール

前橋太郎

Author:前橋太郎
前橋太郎(まえばし たろう)
某大大学院医歯学総合研究科 寄付講座准教授
日常診療における疑問をベンチで解決することを目指すphysician scientist。スローランとザスパクサツ群馬をこよなく愛する。

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